1300年前、白鳳時代のころ。
伯耆の国の13歳になる女の子が、
父親の代わりに賦役に上った都で、
文武帝に見初められ、
お妃に迎えられたという、
日本のシンデレラストーリーともいうべき話が
地元に伝わる古文書(朝妻縁起、大山寺縁起)
に記されている。
文武天皇のお妃ということは、
息子はあの聖武天皇になる。
奈良の大仏を建立し
日本に仏教を広めた超有名天皇の母が
片田舎の伯耆からやってきた玉清姫?
まさか!おとぎ話でしょl
と、根拠のない作り話のようにも思えるが、
地元の寺にはこの玉清姫の位牌も現存し、
聖武天皇から菩提を弔うために送られた
千手観音は、12年に一度御開帳される。
いまもその習わしが続いているのだ。
それだけでなく、地元の上淀廃寺からは
法隆寺金堂と並ぶ日本最古級の
仏教壁画が出土している。
「山陰の片田舎にそんな寺院がナゼ?」
25年前、全国ニュースになり考古学者を驚かせた謎は、
玉清姫伝説が現実だとすれば、説明が付くのだ。
つまり玉清姫の存在が、天皇を動かし、
玉清姫の故郷に、都にひけをとらない立派な寺院を作らせたのだ。
そして実は、このエピソードは日本人なら
だれでもよく知っている言葉の語源となっている。
日常会話の中で良く使う常套句のひとつに
「玉の輿にのる」という言葉がある。
身分の低い家の娘が、高貴な家に嫁ぐこと、
最近は、ボンビー娘が大金持ちの子息と結婚することを言う言葉。
この「玉の輿」は、玉清姫の天皇家への輿入れが
その言葉の由来だと言うのがワタシの持論だ。
つまり、1300年も昔に起こったシンデレラストーリーが
あまりにも衝撃的で、時代を越えて伝わり
今でも脈々と、死語とならずに使われているのだ。
ちなみに、この語源として、江戸時代、
三代将軍徳川家光に見初められた
京都の身分の低い八百屋の娘・お玉の
輿入れのことだとする俗説があるが、
そもそも将軍家が使うのは駕籠で、
輿は天皇家の乗り物であることから、
信ぴょう性が低い。
玉の輿にのったのは、八百屋出身のお玉さんが初めてではなく、
むしろ玉清姫伝説、あの「玉の輿」が武家の世に実現した!と
当時の人々が騒いで、定着した言葉と考える方が、
筋が通っているのではないだろうか。
前述した、玉清姫の位牌と、菩提を弔う千手観音は
専門家の調査によると、白鳳時代のものではなく、
ずっと後の室町期の作という。
誰かの手により、オリジナルが作り直されたのだろうか。
それとも室町時代に初めてでっち上げられた
フィクションだった可能性もある。
仮にそうだとしても、八百屋のお玉さんの
江戸時代より、はるかに古い時代から、
天皇家に嫁いだ伯耆出身の玉清姫の存在は信じられていたのだ。
玉清姫は実在しなくても、玉の輿の言葉の由来となった、
日本版シンデレラストーリーは実在した。
少なくともそう言っていいと思う。
でも、ナゼ、13歳の田舎娘が天皇に見初められたのか?
文武天皇を虜にした、彼女の魅力とはいったいなんだったのだろう?
誰もが知りたいこの謎を、
まるで見てきたかのようにホントらしく語るのがゴロ画伯、
興味を持った人は、ぜひワタシの紙芝居
「玉清姫」を直接ご覧になっていただきたいのだが
話のついでなので、以下に書く。
玉清姫の魅力、その1. 伯耆出身だった。
玉清姫が生まれた伯耆の国には、渡来人、
特に朝鮮半島からの移民が大勢暮らしていた。
当時、百済、高句麗が相次いで滅び、大量の難民が海を渡ったが
地形、海流の関係で、多くが淀江付近に流れ着いた。
彼らは、高い仏教文化を持っていた。
仏教後進国の日本は、先進国の彼らに憧れを持っていた。
日本の仏教文化の最先端の地となったのが伯耆だった。
また、伯耆は出雲と並び、天皇家から由緒ある土地と考えられ
たびたび妃を迎えていた。
玉清姫の魅力、その2.流行の最先端
仏教文化の中で育った彼女は、時代の最先端モードを体現していた。
しかも渡来人の言葉に堪能で、仏教美術に通じている彼女は
都づくりの建設現場で、通訳やコーディネーターとして重宝された。
すでに都でも有名人、ひっぱりだこの人気者であった。
玉清姫の魅力、その3.孝行娘で信心深い
わずか13歳で、病気がちの父親の代わりに、
遠路はるばる都つくりの賦役に上った
評判の孝行娘、また健気に仏だけを信じる彼女の姿は
政治に翻弄され、親の愛を知らずに育った帝の目に
魅力的に映った。
こう考えていくと、あながち天皇が身分の低い田舎娘を
妃にしてもおかしくないと、思いません?