2016年5月2日月曜日

南の島の月章旗

「南の島の月章旗」というエレキ紙芝居を浅草で上演しました。
パラオが舞台の実話。パラオの国旗は、日本の日の丸とそっくりで、日章旗ならぬ、月章旗。なんでかな?と昨年、天皇皇后両陛下が訪問されたのを機に、調べ始めたら、とんでもない感動実話の存在を知りました。そして、いてもたってもいられず、大勢の人に伝えるべきだと、一気に作品に仕立てたのが本作です。

 大東亜戦争(太平洋戦争はGHQ用語)末期、パラオのペリリュー島で、大げさでなく、人類史上最も激しい戦闘が行われました。守った日本軍は約1万人が玉砕、攻めた米軍もほぼ壊滅、生き残った兵隊も数千人気が狂ったといいます。日米死傷者が2万人近いという、とてつもなく悲惨な戦場だったのです。

 ところが、現地パラオ人の死傷者はゼロ。いったいなぜ?特筆すべきはその理由です。
 米軍上陸が迫る中、パラオの人たち、島の若い男性たちが、日本軍と一緒に戦いたいと志願してきました。日本統治時代、パラオは大変に発展しました。白人が統治していた時代(主にドイツ)とはうってかわって、日本人は現地人と一緒に汗を流して道路や水道を作ったからです。なぜなら、パラオは日本の一部になったのだから、本土と同じようにしようと努力したのです。そのかいあって、病院や学校などインフラが次々整備されました。パラオの人たちにとって日本人は同じ釜の飯を食う仲間だったのです。だから、白人たちが再び攻めてくるなら、共に戦うのが当然だと思ったのです。


 ですが、彼ら島民は兵隊ではありません。日本軍の守備隊帳は彼らを追い払いました。しかもことさらひどい言葉を使って。感謝されてしかるべきだと思っていた島民は、悔し涙を流して帰るしかありませんでした。信頼していた隊長が、白人のような侮蔑的な言葉を使ったことが、ことさらショックだったといいます。
 夜になって、島民たちが全員退去するため船に乗りました。日本兵は誰一人、見送りに来ませんでした。友達だ、仲間だと思っていたのは勘違いだったんだ、と島民たちは唇をかんだまま、出航します。ところが、船が陸を離れた途端、暗い森の中から、いっせいに人影が飛び出してきました。日本兵たちでした。「おーい。おーい。元気でなー。」みんなが手を振って、船を見送ったそうです。


あの隊長も、その中にいたそうです。その様子を見た島民たちは、自分たちが一杯食わされたことに気が付きました。あの時の隊長のひどいセリフや態度は、自分たちを戦闘に巻き込まないための芝居だったんだと。

その後、前述したように、すざまじい戦いが起こり、彼らと島民は二度と会うことはありませんでした。数か月後、戦闘が終わり、島に戻った島民は、あちこちに散らばっていた日本兵の亡骸を、泣きながら集め、丁寧に葬ったそうです。

この話を、ワタシはなんとか広めたいと思っております。なんとか上演機会が増えるように努力していきたいです。ちょっとづつですが、前に進もうとおもいます。

宝井琴梅師匠の一門による講談会 「辻講釈」は浅草の長國寺で毎月第一日曜日の午1時からやってます。ワタシもレギュラーで毎回出演しておりますので、ぜひ観覧に来てください。入場無料、投げ銭大歓迎。

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